『生きる』とは
更新日 2007年2月12日
このページを見ている人は、たぶん今現在生きている人達だと思います。
『生きる』ことを考えることは、死ぬまでの間を『どのように生きるか』と云うことを考えることであり、『死ぬ』ことを考え議論することではありません。
明日か明後日に死ぬことが分かったら、『今、何をするか』誰でも一生懸命考えると思います。
でも、ふだんはそんなことを考えずに生きています。 それで幸せですなのですから、
普段はどう生きるかなんて考えても面白くないですから、
(考えるとどうしても死ぬことへの恐怖が先に立ちます。)
でも、生きているわれわれには限られた時間しかないと言うことは、このページを読んでいる人は理解していると思います。
哲学者や宗教家は、なぜ人や生物は限られた時間しかないのか考えるでしょうが、
普通の人はそんなことを考える必要もありませんし、考えもしません。
『今日を生き、明日を生きる』ことを考えるのが、このページの課題です。
たぶん全ての人は、大小いろいろな罪を他の人に対して犯しているはずです。
でも、それは悪意に満ちた行動の結果であれ、ある程度はお互い様なのです。
それでもあなたが、『罪は許されない事だ。』と思っているのであれば、
あなたには充分生きる価値がある人と思います。
但し、罪はどのような形であれ償わなくてはいけません。
でも、『死を持って』では決してありません。
『生きる』ことによってです。
『いかに生きたか、どう生きたか』によって、自分の罪を償うのです。
『いかに生きたか、どう生きたか』とは、他の人にどれだけ役に立ったかです。
役に立ったかどうかは、あなたには分からない場合もあります。
何故なら、それはあなたではなく、あなた以外の人が決めることだからです
それよりも、あなたは一生懸命生きることです。
『一生懸命生きる』ことこそが、『生きる』と云うことの回答です。
『一生懸命生きる』ためには、生きていくための力が必要です。
生きてゆく力は、『生きる糧(かて)』から得なければなりません。
引き続き、『生きるための糧とは、』をご覧下さい。
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